カウンセリング

を受けていると書きましたが、実は今日も行ってきました。以下はそのメモ。(わけわかかもしれませんが...)

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いまだにCさんへの怒りが心の中に渦巻いている。
怒っても怒りたりない感じがある。
彼女と別れるときに、自分が傷ついたことを言えなかった。
そのことが、胸の奥にたまったままなのだ。だから今でも怒り足りない。

父親に対してもそう。protestできなかった。
だから今でも怒り足りない。

あの家庭の中で、父親の言葉は虚しかった。そして、自分は状況に抗議する言葉を発することができなかった。家庭が壊れてしまいそうで。「言葉は虚しい。そして、思っていることを言うと、関係が壊れる。」という感覚や、たまに精一杯の抗議(だがそれはささやかで穏やかなものなのだが)をしても、父親の対応は柳に風だったことを通して、「自分の言葉は、結局は他人の心奥深くには届かない」という感覚が醸成されたか。

そして、それは研究でも同じかも。言葉が他人に届かない、表現すると関係が壊れるといった不安は、他人に評価されることを怖れる不安と重なっている。

わかって欲しい。でもどうせわかってもらえるはずがないと予期してしまう、という矛盾。

Cさんと別れるまでは、自分の弱さを見せていた。しかし、別れる段になると、「自分は傷ついた、もうだめだ」という風に弱さを見せたりすることはできない。

Bさんの場合もほぼ同様だ。最後の頃は、自分との時間を作って欲しいということを彼女に伝え、拒否されていたし、別れるときは、自分の気持ちは一切彼女には伝えず、ただ、残念だとだけ言い表したと思う。しかし、実際にはどんなに孤独で絶望的な気持ちだったろう。

思い出してみると、Cさんと付き合っていた当時は、自分の気持ちは正直に言おうと思っていた。B さんとの付き合いかたへの反省からである。しかし、いよいよ気持ちがいっぱいいっぱいになってしまった段階、つまり別れようという話をする段階になると、自分の気持ちを表明できなかったのである。本当は、そこで表明することが重要だったのだ。

#恋愛がだめになってしまったことはさておいて。

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Cさんが、自分に対してあることないことぶちまけた。そのことが別れることへとつながった。それは、彼女が自分に関して「研究していない。給料泥棒。人は他人に弱さを見せるべきではない。」などと批判したことが、あまりにも自分にとって痛かったから。

自分は、他の人から批判されることに対して、「構えている」ところがあるのではないか。人はみな、他人に対して夢を見、すなわち錯覚をし、それが露呈して現実の他人が見えてしまう、ということを繰り返しているもの。そういうときに、他人を批判するわけだが、それを柔軟に受けとめられない。

自分が、ありのまま受け入れられるべき、という理想が崩れると、へなへなにいじけてしまう。自我崩壊状態になってしまう。

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こういったあたりの話は、もしかすると根本的な核心の問題なのかもしれない。そしてカウンセリングでこのあたりの話題を扱うのは少々きついプロセスになるかもしれない。その過程でカウンセラーに対して陰性転移が起きるかもしれない。

また、陰性転移かどうかはともかく、カウンセラーが自分を何か決め付けていると感じるときは、そう感じたということをカウンセラーに伝えて欲しい。その「決めつけられてしまった」と思ったことの中に、何か大切なことが入っていることがあるから。