父親への怒りの表明の可否について

とりあえずメモバージョン。長いですが、自分の思考過程をそのまま残して置くことも重要なので。

でも、やっぱり彼にぶつかりたい。彼を問い詰めたい。彼を論破したい。彼をぶん殴りたい。てめえのしたことはこれだけの痛みを俺に与えた、ということを、彼の目に見える形で示したい。
つまり、彼に自分の辛さをわかってもらいたいのだろう。彼に受けとめて欲しいのだろう。
これはもしかすると、彼をコントロールしたい、というアダルトチャイルド特有の欲求から来ているかもしれない。

だとするなら、自分の気持ちを表明することは全く問題ないが、彼がそれをどう受けとめるかは彼の問題なのである、ということにある。しかし、そうだったとして、その後はどうすればいいのだろう?
また、今の段階で自分の気持ちを表明しても、家族がもう一度一から関係を構築し直す、などということはもはや全く現実的ではないわけだから、「気持ちの表明ができたね、よかったね。」という以上のことは特に期待できない。
また、気持ちを彼に表明した場合、そういうアクションを取ったということその自体以外に自分が何か得をするか、というとそうではない。下手をすると、とんでもないリアクションが帰ってくる可能性もある。あるいは、父親とのかかわりを復活させることで、彼が起こした別の問題 −例えば現在彼が住んでいる女性に彼が借金をしているとか、彼の隠し財産が明るみに出て債権者が彼の家に押しかけて彼が助けを求めてくるとか− に巻き込まれる可能性もある。
いやいや、そういう道筋で考えるより、そもそも「彼に受けとめて欲しい」という動機があるからこそ、「自分の気持ちを彼に伝えたい」という欲求が生じたのだ、ということに注目すべきだ。
「彼に受けとめて欲しい」というのは、コントロールしたいという欲求だろう。それは「他人と過去は変えられない」以上は無意味だ。動機そのものが意味がないのだから、「自分の気持ちを彼に伝えたい」という欲求の生じようがない。
つまり、「彼に受けとめて欲しい」というコントロール欲求自体が問題なのだ。
ひょっとすると自分は、彼に直って欲しいと思っているのだろうか。彼を「指導」したいと。そういうことだろうか。いや、恐らくは、子供が父親に訴えるように、親の自分に対する扱いが不当であったということを訴えたいのであろう。そんな時、子供は親を指導したいわけではない。
自分の気持ちを相手に伝えることは大切だろう。だがそれはなぜなのだろう。コミュニケーションは相手とのコミュニケーション可能性が前提になっている。相手が、自分の気持ちを受け止めてくれそうだからこそ、自分の気持ちを相手に伝えるわけだ。受け止めたあと、相手がどう行動するかは自分はコントロールできない。でも、自分の気持ちを相手はわかってくれるだろう、そういう前提があるのだ。
という見方で自分のやりたいと思っていることを整理すると、

  • 「父親は自分の言葉(気持ち)を受け止めてくれそう」

なので、

  • 「彼が最終的にどういうアクションに出るかはともかく」
  • 「一応伝えたいことは伝えておこうか」

ということになる。コントロール欲求という問題ではなさそうだ...
これが、

  • 「父親を真人間に更生したい」

ので、

  • 「彼を正しい道に導くための言葉を彼に投げかけよう。」
  • 「もしかすると彼はそれを受けとめ、反省し、自分の行動を改めるだろう。」

となると、コントロール欲求ということになる。
んー、まてよ、そういう気持ちもちょっとはあるなぁ。だって、

でも、やっぱり彼にぶつかりたい。彼を問い詰めたい。彼を論破したい。彼をぶん殴りたい。てめえのしたことはこれだけの痛みを俺に与えた、ということを、彼の目に見える形で示したい。

と、自分の「気持ち」を日記の最後の方に書いたにもかかわらず、その前の部分では、

本当に僕がしたいことはなんだろう。彼が罪を認め、僕が子供の頃、そして大人になってからも、様々な辛さに耐えながら生きてきたことを本当にわかってくれて、自分で自分のケツを拭くことである。

などと、罪を認め、自分で自分のケツを拭く=彼が更生する、ということも望んでいるからなぁ。
つまり、

  • 気持ちをわかって欲しいという欲求
  • 彼をコントロールし、更生させたいという欲求

の二つがないまぜになっているのだ。前者は当然の欲求だけど、後者は不健康だなぁ。さらに、一見自分の「気持ち」を書いているように見える前者を子細に検討してみようか。

  1. 彼にぶつかりたい。
  2. 彼を問い詰めたい。彼を論破したい。
  3. 彼をぶん殴りたい。
  4. てめえのしたことはこれだけの痛みを俺に与えた、ということを、彼の目に見える形で示したい。

1.は、怒りの表明。
2.は彼の論理が間違っていることを彼に納得させたい、という、論理レベルでの彼に対する勝利への欲求。これは、彼が間違っていますよ、と彼にわからせたいわけだ。これは自分の感情とは別の問題で、例えば裁判官が判決の主文を被告に言いわたすようなもの。
しばしば僕は2.のようなことをして、間接的に自分の気持ちを伝えようとする。でも、それは自分が本当にしたいことじゃないかもしれない。2.が達成されても、僕の気持ちは多分晴れない。だって、自分が怒ったり悲しんだりしている「気持ち」は相手に伝わってないかもしれないじゃないか。
そして、そのような行為の中に多分にコントロールへの欲求が含まれているように思う。
3.は、怒りを行動で表したいという欲求。
4.の「彼の目に見える形」として、ここで暗黙のうちに自分が想定しているのは、なんだろう。「自分の痛み」が彼の目に見える形ってなんだろう。何らかの形で怒りを「表現」したいことには違いない。
結局、1. 3. 4. は、怒りを表明したい、という欲求で、3.はともかく、1.と4.は可能であれば是非そうしたいものだ。だが、2. はどうやらこのような場面ですべきことではなさそうだ(相手を論理的に説得することが悪いというわけではない。そのような必要性がある場面は当然あるだろう)。
父親への怒りの表明。これは僕の当然の権利だ。是非やりたい(とあえて自分を煽ってみる)。自分が余計な不利益を被らない形で行なうことは可能だろうか。父親がそれとわかる形での、怒りの表明であることが望ましいのだが。
通常、怒りを誰かにぶつけるということの、人間関係における機能は、怒りをぶつけられた人が何かに気がつく、ということにあるのだろうなぁ。父親も何かには気がつくと思うが、それはおそらくは、「自分に都合の良い解釈」というフィルタ(彼の場合はそれが普通の人とは違い、強力なのだ)を通したものになる。そのために、彼が気がつくことの中身は想像が付かないのだ。コミュニケーションの可能性が低い人物なのである。
ただ、何かをすること、特に父親に意見を言うことを「あらかじめあきらめること」が、自分が身につけてしまった良くない習慣の一つだとも思うのだ。自分はその習慣を打破したい。
...と書いて気がついたが、そのような良くない習慣には、実に様々なものがある。自分の対人関係における未熟さのかなりの部分はそのような習慣が絡んでいる。そのような多くの習慣の中から、「父親と対決しない」というものだけを敢えて取り出して、まずはそれを打破しようと考える理由は何か。
それを打破することによるメリットとリスクは?
打破することを取りやめた場合のメリットとリスクは?