アイデンティティの危機

誰しも、出自など、自分がコントロールできないアイデンティティを正当化したいものだ。自分の父親は罪深い人間であるため、そのことが自分にとって深刻なアイデンティティ危機となっている。
 私が父親の罪に対してとる立場としてはどのようなものがあるか。立場の一方の極は、彼の弁護者の立場。もう一つは、彼はあくまで罪人であり、その罪には情状酌量の余地はない、という立場。
 私は、彼が憎い。だから、彼を弁護したくない。彼は実際、情状酌量の余地のない悪質な罪人だ。だが、そういう立場をとると、今度はそれが自分にふりかかってくる。自分は、屑としか言いようのない人間の息子である。これでは自分のアイデンティティを正当化できない。
 いや、そのような父親の息子だ、という自分のアイデンティティを正当化する必要は、そもそもあるだろうか。自分の出自が卑しいものであったとして、そのことを恥じる必要があるだろうか。なぜそれが恥なのか。
 僕には、出自に関係なく、幸せになる権利があるんじゃないのか。
 僕には、出自に関係なく、自分の中から生まれた作品(それが研究成果であれ、音楽作品であれ)を発表する権利があるんじゃないのか。
 僕には、出自に関係なく、人から人として扱われる権利があるんじゃないのか。
 僕には、出自に関係なく、自分を含む全ての人を愛する権利があるんじゃないのか。
 一体、自分が自分の出自を恥ずべきものであると感じているとして、そのことがアイデンティティにどう関係するのか。
確かに、子の成長過程に与える親の影響は大きい。結果的に親と同じようなパーソナリティを身につける子もいることも事実だろう。だが、自分のパーソナリティに父親の自己愛性人格障害的なそれと共通なベクトルがほんの少しでもあるだろうか。私は彼とは対極的な価値観とパーソナリティを持った人物であり、あのような父親の影響下でそのような自分を育んできたことをこそ、大きな誇りとして感じるべきなのではないか。
 自分のアイデンティティに、彼のパーソナリティは影響を与えている。だがそれは、彼を反面教師として見つづけてきた、という意味での影響だろう。
 繰り返しになるが、私のアイデンティティは、他人に大いに誇るべきものだ(だからといって、とてもではないが、父親の罪について他人に話すことなどできない。せいぜいこの日記でかなりの程度ぼかした表現で書くことができる位なのである)。