坂を下って女性に出会う夢

を見た。カウンセリングでそれについて話題にしてみた。どんな夢かというと:

車で急坂を下っている。ついさっき、この坂を上って丘に登った帰りである。それは現実には有り得ないほどの急坂で、うっかりブレーキを踏みすぎるとタイヤがロックしてずるずると落ちていきそうなほどの勾配なのだ。そろりそろりと進んで、ようやく坂のたもとに辿りつくと、そこは一本の道に突き当たっている。
さて、さっきは左か右、どちらかの方角から自分は来たのか。はっきり憶えていない。憶えているのは、どこか低い平地から丘に登っていったということだけ。右に曲がるとゆるい上り、左に曲がるとゆるい下りなので、より低い場所に行けそうな左が正しいに違いない。
左折して、谷筋のゆるやかな坂をゆっくりと下る。周囲は民家もまばらな、田舎の風景。すると、ずっと先の方でどうやら道が狭くなっていて、車が通れないように見える。それ以上下っても無駄だとは判っていながら、それでもなんとなく坂を下って行けるとこまで行ってみる。
果たして、ある所で急に道の幅が狭くなっているのがはっきり見えてきた。道の幅が狭くなる直前の、道の右側に小さな雑貨屋さんがあって、なんとなくのんびりした風情。
車をUターンさせようと思う。雑貨屋さんの並びで一つ手前のスペースが、なぜか小さなキャンプ場になっていて、人が一杯たむろしている。車をそこに停め(というか、いつの間にか車に乗っている状況は消え、ただその場に佇んでいた、というのが正確だが)、道を狭んだ向こうに目を向けると、そこに木でできた下駄箱のようなロッカーのようなものが置いてある。それは構造としては本棚のように、ただ棚板が何枚か縦に並んでるだけの質素なもので、左右を隔てる仕切りも、ましてや扉なども、ない。
自分はいくつか荷物を持っていて、それをとりあえずロッカーに置いてみる。なんだかごちゃごちゃとしていて、なかなか整理して置けない。そうこうしている内に、左側に若い女性がやってきて、その人の荷物を置こうとするが、自分の荷物が邪魔をして置きにくそうだ(とはいえ、ロッカーは空いていて、他にも荷物を置く場所はいくらでもあるのに、なぜかその女性は私のすぐ左隣の場所に荷物を置きたいのだ)。私はその人が荷物を置きやすいように、自分の荷物を少しばかり右にずらした。
「どうも」「いえいえ」というような会話が交されたかもしれない。それに続いて「わたし××っていうの。」とその女性は自分の名前を名乗って、少し会話を続けたそうだった。自分は何となくどぎまぎして、それ以上何の話もしないうちに、この夢自体も終わった。

「気楽に行こうよ」

という言葉を自分に言い聞かせることがよくある。
でも、その行為は実は自分にとってはダブルバインド以外の何物でもない、ということに気が付いた。「言い聞かせる」以上は、多少無理をしている部分があるのだから、既に気楽じゃないのである。「気楽にいきたいな」とか「気楽にいけたらいいな」というような、自分の欲求をそのまま表現したものならダブルバインドにはならない。コントロールを否定するようなコントロールというのは、どうしてもダブルバインドになる。

自分をコントロールすることがいけない、とか、不可能だ、というわけではない。

自分を自由にしたければ、「言い聞かせ」はナンセンスだ、というだけである。

まてよ、

その次に効くような何かはあるだろうか。

ちゃんと、その前の文章で、

論理的な分析の対極にある、「詩」の形を取ったほうがよいのかもしれない。

と言っているじゃないか!

が、私には詩など書けない。

書けなくたって、書けばいいのだ。書き言葉の論理性を超越した何かを。

...父は詩人であった。

だからと言って、自分が書いてはいけない、というものではない。詩を書くこと自体には才能は要らない。力のある詩を書くことには才能が必要かもしれないが。そのようなことはこの際どうでもよいではいいではないか。他人に何かを伝えるという側面は無視してよいのだから。私は自分のために書くのだから。

怒りの気持ちを整理すること

自分が父親を何らかの基準で裁いても、怒りを整理することには繋がらない。自分の「裁判」で彼を「有罪」にしたとしても、そのことで可能になることは、せいぜいが自分の怒りを正当化する程度である。今更そのようなことをしなくても、自分の怒りは充分に正当なものだ。

怒りの感情を整理することは可能だろうか。感情の整理に一番効くのは時間だ、という面は大いにあるにせよ、その次に効くような何かはあるだろうか。

父親が僕に言った言葉。

「結婚するなら、価値観の合った人がいいと思う。
お父さんとお母さんはそうではなかった。」

両親が離婚にまで至った原因は何だったのか。
そして、父が言う「価値観」とは何か。
父が言う「価値観が合う」とは?

要するに、あの人は、自分と「価値観」が「合う」人がいると思っているのだ(驚くべきことに!)。そんなに価値観が合う人と結婚しなければ、というのなら、病的に反社会的な価値観を持ったような−ということはおそらくは反社会性人格障害の範疇に入るような−女性と結婚する位しかないだろう。そうでないなら、彼の反社会的な価値観を共有できる女性などいないに等しい。

仮にそう見える女性がいるとするなら、その人は共依存症であって、いつの日か彼女の力で父親を更生してみせようと、なぜか考えてしまっている、というケースだろう。事実、母はそうであった。彼女は父と結婚する前に「私がこの人を正しい道に戻してみせる」というようなことを考えたと語ったことがある。

しかし...そのような結婚は、父が考えている「価値観」が「合う」人との結婚ではない。当然の結末として、それは破綻するだろうし、事実両親の場合はそうなった。

問題は、父親が、自分の反社会性を「価値観」として正当化していることだろう。が、一般的にあのようなゴミのような「価値観」を、何らかの形で正当化できるなら、私はここまで苦しまないはずだ。やはり論理を超越した了解不可能な仕組みが、彼の心に巣喰っているとしか言いようがない。

これでは、この文章は単に彼が人格障害のような、病的な傾向のあるパーソナリティの持ち主であるという、既知な事柄の一つの表れを記しているのに過ぎないことになってしまうが。

自分としては、父親憎し、許し難し、という怒りをこのような文章で表現しているつもりだが、実際にはそうではなくて、怒りの感情を生む原因を論理的に掘り下げている、ということになる。怒りを文章で表現するなら、論理的な分析の対極にある、「詩」の形を取ったほうがよいのかもしれない。が、私には詩など書けない。

...父は詩人であった。